Ignorance is bliss

アインスタックフェルトとまりあと……

 昼間、日の光の中で見たその建物は、廃墟かと思うほどボロボロで何の威厳も感じられなかったのに、不思議なことに月明かりで見ると本来持つべき神聖な空気を取り戻したかのようだった。

「こんばんは」

 教会という施設に似つかわしくない、真っ赤な薔薇の庭に設置された白いベンチの上に腰掛ける、銀髪に黒い神父服を着たその男は、あたしの顔を見るなり優雅に挨拶をした。

 彼は名を、アインスタックフェルトと言った。
あまりにも長すぎて、一番最初に聞いたときは覚えられず、何度も聞き返した記憶がある。今はなぜか……彼にこそふさわしい名前だと思う。

 軽く会釈を返せば、笑顔で返された。

 不思議なことに、彼とは夜にしか会ったことがない。
昼の間この教会で見かけるのは、同じ神父服を着ていること以外に彼とは似ても似つかない、黒髪を長く伸ばした長身の男一人だけだったはず。

 不思議なことは他にもある。
夜になれば必ず見かけたあの影たちは、この教会にいる間……いや、彼に会っている間だけは一切姿を見せない。

 彼はあたしの手の中のものへと視線を移した。
彼の瞳は不思議な色をしていて、右目は赤く、左目は金色をしていた。そのせいか浮き世離れして見えて、例え彼の年齢が二百歳を越えていたとしても、あたしは驚かないだろう。

「大陸最大の図書館では物足りなかったですか?」
「いいえ、満足したわ……歴史書以外はね」

 分厚いソレを放り投げる。
危なげなく彼は本を受け取り、表紙を見た。
『ノア大陸歴史書』その本にはノアの言葉でそう書いてある。

 この世界のことを少しでも知りたくて、アインスタックフェルトに頼んで大陸最大の図書館に案内してもらった。そこで歴史に関係ありそうな本を片っ端から漁ってみたのだ。
しかし肝心の歴史書の中身はと言うと、どの本も歴史を書いたものと言うよりは、神話に近い、本当にあったことかどうかが疑わしいくらいに信じ難いことばかりが書かれていた。

「この本に書いてあることは、一部の事実を除けば本当のことですよ」
「……どうして判るの?」
「こう見えて、長生きですから」

 そう言って彼は手にした本の表紙をめくった。そして数ページ、ほんの序章の部分で手を止める。

「ひょっとして、この部分が気にでもなったんですか?」

 それは八柱神について書かれた内容だった。
大抵の歴史書は、冒頭に八柱神のことを書いている。具体的な内容は無く、どれも同じようなことを記載している。

―――はるか昔、この地に人が満ちる前。
世界は偽りの神に支配され、弄ばれていた。
それを哀れに思った八人の聖人たちは、次元の壁を越えてこの世界に降臨し、偽りの神を滅ぼした。
しかし、偽りの神の呪いによって太陽が沈み、海は赤く染まり、大陸は二つに分断されてしまった。
聖人たちは偽りの神をパンドラと名付けた大陸に封印し、二度と人が立ち入れないようにすると、残された希望の地、ノア大陸に人々を住まわせた。
その後八人の聖人たちは、ノアの大陸に永遠の地を築くと、失った太陽を甦らせる術を生み出し、人々を夜の恐怖から救い出した。
そうして八人の聖人たちは、人々から神と崇められるようになり、いつしか人々は彼らを八柱神と呼ぶようになった―――

「こんなの、ただのおとぎ話じゃない」
「けれど現実に八柱神は存在し、ノアの人々は本当の太陽も海も知りません」

 彼は優雅な仕草で本を閉じると、分厚い歴史書をあたしに返してきた。ずっしりと重いそれを、あたしは事前に全て読んでいた。

「でも、八柱神について詳しく書かれている文献はどこにも無いよ」

 もちろん、この一冊だけではない。歴史書と呼べそうなものは一通り読んだはずだ。
この世界に当たり前のように存在している魔法とやらで、この世界の文字を理解できるようになったのは、アインスタックフェルトと出会ってからだ。それからは図書館に籠もって、あらゆる本を読み続けた。

 しかし、欲しい答えは本の中には無かった。
代わりに答えてくれたのは、あの『夢』だった。

「ソフィアが、八柱神のことはあなたに聞けって」

 白いベンチの、彼の隣へと腰かける。
ほんの少し見下ろされるいつもの位置。

 ソフィアの話はいつも唐突だ。
夢の中で会う彼女はいつだって一方的で、人の話を聞いてはいない。
けれど彼女は全てを知っているかのように振る舞う。元の世界に帰るためには、彼女の言葉を信じる他無い。

 彼はソフィアの名を出すと、いつもちょっとだけ懐かしそうな顔をする。
けれどその表情は、現在同居している金髪の小さな少年とは違い、とてもあっさりとしたものだ。
恋人に想いを馳せる顔と言うよりは、古い友人を懐かしむような。
そして観念したかのようにゆっくり目を閉じて、彼は八柱神のことを語り始めた。

「彼らは星の船に乗り、世界を渡る者たちでした―――」

 アインスタックフェルトは嘘偽りなくすべてを話した。あたしにその話の信憑性を確かめる術はないけれど、確かにそれは真実だった。
そしてあたしは、八柱神の事とこの世界の事をすべて知った……つもりになった。

「でも、そんなことまで聞いてどうするんです? あなたは元の世界に帰りたいだけなんでしょう?」
「帰りたいよ、けど、ソフィアの言っていることは信用できない! だって、あたしあなたに聞くまで知らなかったもの……ソフィアが」
「まりあ!」

 その時、私の名を呼んだのは金の髪の彼だった。
走って来たのか、息が切れている。もしかしたら、途中で影たちにでも会ったのかもしれない。彼、良く絡まれるから。

「夜に出歩くのは危険だって! アインスも、何で止めないんだ!」
「いやあ……アゼル以外の子と話すのは久しぶりでさ」
「ジジイか!」
「ごめんね、無理言ったのあたしなの。アインスタックフェルトは悪くないから」
「……そう」

 夜に出歩くことが危険なのは知っている。
しかしアインスタックフェルトに会う日は、帰りでも影たちに出くわすことはない。見ることもない。
それを知っているから、あたしはあえて彼を待たずに教会の庭から出た。

 ショックだった。
知らなかったのだ。ソフィアが―――八柱神だったなんて。

「それで、彼女のこと……どうするつもりなんですか?」
「すべてが終わったら、忘れてもらうよ。まりあは、その方が良いんだ」

 月明かりは二人を同じ明るさで照らした。
この二人は、良く似ている。

コメント