ソフィアとザイン
ソフィアと、巫女たちの物語。
歌姫ソフィアは聖女である。
人々が聖女に求めるものは多い。
そして聖女はそれらを余すことなく叶えてくれる。どんな願いも。
大病を患ったものは病の完治を願う。
大怪我を負ったものは傷の治癒を願う。
金銭で解決できない多くの願いは、最終的にソフィアの元へやってくる。
ソフィアは叶える、余すことなく。すべての願いを。
知らず知らずのうちに対価を支払い、聖女自身が蝕まれているとしても。
聖女の傍には常に男が一人立っている。人々は彼の名を知らないし、話しかけても何の反応も示さない彼には興味もない。
ただ一人、ソフィアだけが彼が「何」かを知っている。
「ねぇザイン、私たちこれからずっと一緒にいましょう。これからもずっと、人々の願いを叶えて世界を平和に導くの!」
ソフィアは幸福だった。
人々の幸せのために命を削り、短い生涯を燃やして願う。世界の幸福を。
「……っ、ケホッ……」
「ソフィア様!?」
軽く咳き込むソフィアを信者たちは本気で心配した。
今やソフィアの奇跡の力は国内外を問わず知らぬ者はいない。人々は救いと奇跡を求めてソフィアの元へ訪れるのだ。
聖女は平和の象徴であり、奇跡の体現者。たとえ今願いを叶えてもらわなくとも、ソフィアに倒れられては、多くの人は困るのである。
「……大丈夫、最近喉の調子が悪くて……歌いすぎかな?」
「少し横になられた方が……顔色もよろしくありませんし……」
「そうかな……じゃあ、少し休むね」
信者の一人である女に青白い顔色を指摘され、ソフィアは素直に休憩室へと入った。自覚するほどには体調が悪いらしい。
部屋に残されたのは女とザインだけだ。
ザインが何も反応しないのは多くの者が知っているので、女も普段はザインに構う事は無い。しかし体調を悪くして部屋を去ったソフィアに一言も声をかけず、心配する素振りもなくただ佇むだけのザインの態度に、怒りに似た感情を覚えた女はザインに問いかけた。
「心配ではないのですか、ソフィア様の……その、最近体調が思わしくないと聞いておりますので」
声をかけて初めて、ザインは女を見た。そして一言言った。
「心配などしない」
「なぜです? あなたは聖女ソフィア様の従者ではないのですか!?」
怒りに任せて声を荒らげる女をザインは嘲笑した。
女は激高した。この男は、本心からソフィアの事などどうでも良いと思っているのだ。
しかしソフィアが実際頼りにしているのはこの男だ。こんな男を一番に頼るのだ。そして彼女の傍に一番近くにいることを許されている。
「やはり私にはあなたが分かりません。とても、人の心があるとは思えない」
「元より人ではない」
女は、ザインの言葉にふと疑問に思ったが、結局それ以上追及することはなく部屋を後にした。これ以上この男と話をしていても、気分を悪くするだけだと感じたからだ。
誰もいなくなった大聖堂でザインは佇み続けた。
ソフィアの体調が良かろうが悪かろうが、明日にはまた大勢の信者が救いを求めて押し寄せるのだ。
ソフィアの体調を心配するのは、結局自分たちの願いを叶えてもらうため。
ソフィアがいなければ願いの成就が不可能になってしまうからだ。だから心から心配することが出来る、己のために。人間とはそういう生き物なのだ。
自己中心的で傲慢で、生への執着が強く、強欲だ。
とても醜くて美しい、それが人間だ。
翌朝、ソフィアは時間通りやってきた。ザインが体調の事を聞く前に、ソフィアは自ら今日の調子について話し始めた。
「おはようザイン。昨日はごめんね、今日は多分大丈夫だから!」
大聖堂の扉を開く前から、救いを求める人々は列をなしていた。ソフィアが大聖堂に立ち続ける限り、この列が途切れることは無い。
ザインはソフィアについて特に聞くこともしなかった。前日にいた信者の女の言う通り、これっぽっちも心配などしていないからだ。
「ソフィア様! もうお身体はよろしいのですか?」
「うんバッチリ! 心配かけてごめんね、一晩寝たら治ったわ」
「そうですか……」
昨日ザインに突っかかってきた女の信者がソフィアに駆け寄った。
他の上っ面だけの信者と違い、彼女には己の願いなどなく本心から聖女の体調を心配をしている。
ザインにはわかる。おそらくもともと信心深い質なのだろう。
彼女が求めるものは信仰の対象であり、恐れるのは目の前にいる奇跡の聖女の喪失だ。
「大丈夫だから、大聖堂の扉を開けて」
ソフィアのその一言で、大聖堂の扉が開かれる。
扉が開かれるのを今か今かと待ちわびていた人々は、扉が完全に開かれる前に我先にとなだれ込んでくる。
「私は不治の病なんです……お願いしますソフィア様!」
「顔に出来た傷を治して戴きたいのです。お願いします、お願いします!」
「わたしはもう目が見えません、どうか、この目にもう一度光を……」
いつだって治癒の依頼は多い。
ソフィアは病に侵された者の胸に、怪我をした幹部に、光を失った目にそれぞれ手を当てて治癒を祈った。
ソフィアの願いは、すべてが叶う。
「……楽になった……おぉ、まさしく奇跡だ!」
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
「見える、見えるぞぉ……!!」
次々と起こるソフィアの奇跡を目撃して、人々は沸き立つ。
そして次に己を選んでもらうために前列に押し寄せた。
そこで気づく、ソフィアの顔色は悪くなる一方だということに。
大聖堂の扉を開けて、まだ一時間も経っていない。
先に気が付いたのは、やはり信者の女だった。
「ソフィア様っ!?」
女が駆け寄ると同時に、ソフィアは倒れた。
大聖堂は騒然とした。
一瞬ソフィアを心配し、すぐにまだ願いを叶えてもらっていない不満が押し寄せる。信者の女はそれどころではないと、人々を大聖堂から追い出すように他の信者に指示を飛ばした。
「一体どうなさったのですか、ソフィア様……」
前日体調を崩しても、朝には明るく元気に振舞っていた。
それが今や顔色は紙のように白くなり、唇は青く呼吸はか細い。まるで瀕死の状態だ。何かの発作なのか、このままでは危ないかもしれない。
「どうすれば……」
信者の女は困惑した。
傷や病を癒す肝心の聖女が倒れたのだ。この聖女の病は誰が治せるというのか。
信者の女は顔を上げた。
先ほどからずっと、ソフィアの元に佇みながらも手を出さない男がいる。
この男はいったい何なのか。ソフィアが頼りにする唯一の男。
「お願いします、どうかソフィア様を助けてください!」
女は声を張りあげた。
しかし男はただ冷たく見下ろしてくるばかりだ。女は涙ながらに訴えた。
「あなたなら、聖女様を救えるのでしょう!? どうか、お願いします!」
信者の女がどんなに懇願しても、男の表情が変わることは無かった。
なぜなのか。女は本気で理解が出来なかった。
聖女が苦しんでいる。死ぬかもしれないのに、男はただ黙って見ているだけだ。これまで聖女のどんな願いも叶えてきたというのに、肝心の聖女を救わずにいるのは、なぜなのか。
そこまで考えて、信者の女はようやく気が付いた。
人々の願いはソフィアが叶える。実際は、そうではなかった。
ソフィアは人々の願いをこの男に伝える。そしてこの男がソフィアの願いを叶えているのだ。この男が叶えている願いは、全てソフィアからのもの。
この男はソフィアの願いしか叶えない。
「なんてこと……」
もはや虫の息となりつつあるソフィアを抱え、女は悲嘆に暮れた。
ソフィアの口から直接、願ってもらわなければ。女はソフィアの肩をほんの少し揺すった。
「ソフィア様……どうか、この男にご自身の病を治すよう願って下さい」
女の必死な叫びが届いたのか、ソフィアは苦しそうに目を開けた。しかし女の言う事が理解できないようだった。か細い息で問いかけてくる。
「……病?」
「どこかお身体が悪いのでしょう。今までのように、この男に自身の病の治癒を願ってください。あなたの願いは全て叶うのです」
「ああ……」
女の言葉に納得したような声を発して、しかしソフィアは病の治癒を願う事は無かった。
「ザイン、また……」
伸ばした手は、取られることなく地に落ちた。
その瞬間、ソフィアの息は止まった。
信者の女は暫く、聖女のあっけない死を受け入れられずにいた。しかし自らの腕の中で温もりを徐々に手放しつつある身体を抱いていると、現実として受け入れざるを得ない状態になっていた。
美しいままの聖女の遺体をソッと床に下すと、聖女が死んだという実感と同時に、得も言われぬ感情が湧いてくる。それは悲しみではなく、怒りだった。
「なぜソフィア様を救わなかったのですか……」
その声は怒りに震え、喪失感に震え、そして何より奇跡の聖女を失った恐怖に震えていた。
ソフィアに関わった人間の反応は、どれも似たり寄ったりだ。ザインはいつも思う『またなのか』と。
「ソフィアは救いを必要としない。していない」
「……え?」
「願いを叶える対価は聖女の命だ。人々の願いを叶えるたびに、聖女の身体は蝕まれる。そしてその事をソフィアは理解しない」
理解したならまだしも、理解しないとは。
信者の女の怒りは頂点に達した。
「理解しないとは……それは、ソフィア様をだましていたという事ですか!?」
「だましていない。願いの成就には対価が必要なこと、命を削る事、全て話した。だが彼女はそれを『理解できない』……転生者とはそういうものだ」
男の説明を……信者の女は理解できなかった。
しかし脳が理解せずとも、女の怒りはどこかへ吹き飛んでいた。
ソフィアという聖女が死んだ。それだけが残された事実。もう悲しみもよくわからなくなっていた。胸に穴が空いたようだった。
「……これから、一体どうしたら……」
それは男へ向けた言葉ではない。
今まで、聖女の信者として……ただの信者の中ではソフィアに顔も名前も覚えてもらった一番の使途として、聖女の活動を陰ながら支えてきたつもりだ。
何の見返りも求めず、ただソフィアのために尽くす。そうすることで聖女に少し近づけた気がした……なぜならソフィアは何の見返りも求めず、人々に尽くしてきたからだ。その姿を見て生きてきた。
ソフィアに尽くすことが生活の一部になっていた。
そのソフィアを、突然失った。喪失感からポロリとこぼれた言葉だった。
女の虚無を、ザインは見逃さなかった。
「では、お前が聖女になれば良い」
女はゆっくりと顔を上げてザインを見た。
寄る辺をなくした女の虚無に手を差し伸べる。今の彼女には、ザインの事が神のように見えている事だろう。
「お前に名前をやろう。イ・エリ……世界に光をもたらす聖女の名だよ」
女……イ・エリはザインの手を取った。
その瞬間、まるで洪水のように記憶の波が押し寄せる。実際は見てもない、聞いたこともない記憶が自分のモノのように脳に蘇るのだ。
「インフィニティにて日の巫女となる者の名前だ」
ソフィアが死んだのは誰が悪いのか。人々の憎悪を一手に引き受け、いつかザインは憎しみに殺されて死ぬだろう。
その時に世界に何が起こるのか、イ・エリは知っていた。
太陽が死に、海が赤く染まって……ソフィアが救った人々の数と同じだけ、世界は影と異形に溢れるのだ。
闇に包まれた世界に光を取り戻せるのは、日の巫女の命で作られた人口の太陽。
イ・エリは自分の未来の姿を知って涙した。
それは思い描いていたような聖女の姿とはまるで違う、壮絶な最期だったがそれでも総てを受け入れる覚悟でいた。
世界のために自分を犠牲にしたソフィア。そのソフィアのために自分を犠牲にすることは、もはや喜びですらあった。
世界にはソフィアがいなければならない。すべての人を救う聖女が、世界には必要だ。
新たなソフィアという転生者が現れるまで、この世界を繋ぐ者が必要なのだ。
救い無き世界を照らす光。それに自分は、選ばれた。
あとはもう、繰り返すだけ。
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