降臨者16

 夢の中で眠りにつくという事がどういうことなのか、ナギカは身を持って経験した。

 これがいわゆる「夢もみない程の深い眠り」ってやつなのではないだろうか。もしかしたら夢は見たのかもしれないが、記憶には残っていない。
軽く伸びをする。とにかく、久しぶりにぐっすり眠れて身体は軽い。

 今まではぐっすり眠れていなかったのかというと、答えはYESである。何せ夢の中でソフィアに話しかけられるのだ。
眠っている人と会話をしてはいけないと言うが、そんなのソフィアはお構いなしである。
相手はナギカをこの世界に呼んだ人だ。ナギカの命運を握っているといってもいい。
眠っているのに妙な緊張をしていたのだから、疲れがとれるわけがない。

 目が覚めて、ここがカインの店の二階だと確認する。
どうにも今までまともに寝た記憶がないせいで、ちゃんとした寝床で寝て起きたのはこれが初めてのような気がする。
仮眠のつもりが、日が高くなるまで寝過ごしたのかとも思ったが、そういえば太陽の位置は変わらないのを思い出した。時間の感覚がつかめない。正直、この世界の太陽に慣れる気がしない。

 仕方なくナギカは散らかしたままの手荷物を漁り、以前カインに貰った銀色の円盤を取り出した。
この世界に来てから、スマホの電源が全くつかなくなってしまっているので、後で何か他に目覚ましの方法を考えなければならない。銀色の円盤を日の光にかざすと10:22の表示。
そこそこいい時間だ、やはりガッツリ眠ってしまったようである。

「はぁ……ホントに緊張感無いんだ、私」
「うん、ナギっていっつも寝てるよね」
「!?」

 独り言のつもりだったのに、返事が返ってきて慌てる。
カインがケロッとした顔で階段に座っていた。

「カっ……!」
「中途半端な時間だから、朝食か昼食、どっちがいい?」
「……朝食」
「わかった、作ってくる」

 丁度おなかがすいていたのでうっかり答えてしまった!

 急いで立ち上がると、作ってくると言って階段を下りようとするカインの腕をつかんで引き留める。
つかんでから、しまったと思った。
怪我した方の腕をがっしりつかんでしまったことに気づき、慌てて離す。
慌てふためいているのはナギカだけで、カインはなんてことない顔をしていた。

「け、怪我は大丈夫なの!?」

 あれから一日も経っていない。
普通なら半日で怪我が治るなんて、ありえないのだが。

「んなもん、とっくに治ったよ」

 その証拠に、カインは怪我した方の服の袖をまくって見せた。細くてなまっちろい腕には傷跡一つない。
あの時確かに、二の腕から手首にかけて鋭利なもので裂かれたはずの腕には、傷どころか治療跡すらない。ついでにほくろもシミもない。なんて羨ましい。

「こんなの、いちいち気にする傷じゃない。おれは人間じゃないんだから、どんな怪我でも一瞬で治せるよ」
「でも……」

 そうは言っても、あの時「一瞬」では怪我は治らなかった。
おびただしい量の血も流れた。ナギカのせいで。

「でも、ごめん」

 夜に外に出ても襲われないのなら、異形を直に見てみたいという好奇心で、本当に悪い事をしたなと思う。そう思って謝ったのに。

 一瞬の間をおいて、カインが笑う。
にへら、と。
とんでもなく悪い笑みだ。

 ナギカの顔色がサッと青くなる。早まったかもしれない。

「あー確かに痛かったなー! でもナギがキスしてくれたら、痛いの忘れられるかも」

 アホなことをぬかすカインの胸倉をつかんで引き上げる。
随分体重が軽い男だ、ナギカでも片手で持ち上がるんじゃないだろうか。

 そのまま引き寄せて、唇にキスした。

「……は?」

 自分で言ったくせに何を呆けているんだろうか。
一秒にも満たない瞬間的な接触だったが、約束は約束である。痛いの、忘れてもらおうじゃないか。

 ナギカはつかんでいた手をパッと離して後ろに放った。
ぼけた男は真っ逆さまに階段を転げ落ちていく。意味不明な悲鳴を上げながら階下でのたうち回る姿を見て、ナギカはほくそ笑んだ。
自ら派手に転がり落ちていく様子を見て、確信する。人間より丈夫というのは、どうやら本当らしい。

「ばーか」

 哀れな男は階段から落ちた挙句に、うるさいとエルーニャに大事なところを蹴り上げられていた。

 そこからナギカの切り替えは早かった。
こちとら寝起きだし、朝に眠気に負けて自分の荷物を散らかしたままだ。手早く片づけて一か所にまとめ、身だしなみも整える。
次いで、自分が眠っていた毛布をそのまま窓枠にかけて干し、もう一組も同じように日に当てる。
荷物の中の洗濯物を取り出し、一階に降りて放置されたままの、この家の溜まりに溜まった洗濯物とまとめてカゴに入れる。ついでに洗面所で顔を洗ってから、洗濯物が山となったカゴを持って、食堂に顔を出す。

「ナギカおはよーなの」
「おはよう。エルーニャ、洗濯ってどうやるの?」

 エルーニャは、もはやナギカの前では人間の姿に化けないことにしたらしい。天魔の姿でナギカに洗濯の方法を教えてくれた。

 洗濯の方法だけはなぜか予想していた通りだった。石鹸をつけて、手もみ洗いである。
魔法が文明の利器を凌駕しているこの世界でも、洗濯乾燥機に勝る魔法は未だにないらしい。
原始的だが、水源はあるだけマシかもしれない。幸い、天候は遮る雲もなく、今日は絶好の洗濯日和だ。ご飯を食べ終わってから、洗濯に手を付けよう。

 カインは約束通り朝食を作っているようだった。ベーコンとパンを焼くにおいが漂ってくる。
慣れた手つきで白いワンプレートに焼いたパンと葉物とベーコンを乗せ、皿の端にバターを添える。朝食らしく量は軽めだが、配置や彩も考えられた一皿だ。さすがにこれでお金を取っているだけはある。
若干、前かがみになっているのは、自分のせいではないので気にしないことにする。

 プレートをテーブルに運ぶのはエルーニャの仕事だ。
盛り付けの終わった皿を一皿ずつ運ぶ。皿は三つある……三つ?

「カインも食べるの?」
「えっ? うん、まぁ……結構血を流したし」

 前は自分の口には合わないと言っていたから、てっきり人間の食事をとらないのかとも思ったが、どうやら違うらしい。
食事をとる基準は良くわからないが、ナギカが怪我をさせたせいでもあるようで、少し心苦しい。
それでも、彼の皿に乗っているのはパンだけで、ベーコンや葉物は一切ない。やはり基準は良くわからない。

 三人それぞれ席に着き、朝にしては随分遅い朝食が始まる。

「「「いただきます」」なのー」

 三人ともしばらくは無言で食べていたが、ナギカはカインがパンを食べ終わったところで言った。

「皿は私が洗うから、流しに置いておいて。いくら魔法でどうにかなるからと言って、汚れ物放置禁止!」
「え、でも腐らないようにこの家全体に魔法を……」
「あと、この家の洗濯物全部出しなさい。まとめて洗濯するから」
「いやでも、匂わないようにはしてあるんだけど……」

 いちいち言い訳するカインを一睨みで黙らせる。
飲食店をやっているのなら、腐らない・匂わないではなく、キレイに使うことを心掛けてほしい。

「全部、出しな!」
「わ、わかった」

 カインはさすがに自身のずぼらさに自覚はあるのか、ナギカが一喝するとしぶしぶ従った。

 この家でナギカが唯一許せないのは、エルーニャもカインも片付けが超絶ヘタクソという事だ。
使ったら片づける、汚れたら洗うが鉄則のナギカは、これには我慢できない。
早速朝食分の洗い物を済ませ、家中の洗濯物をかき集めて洗剤に浸し、丁寧に洗う。その中には、ナギカの着てきた制服も混じっていたが、ためらうことなくさっそく洗った。布地が痛もうと関係ない。泥だらけよりはよっぽどマシだ。

 小一時間も過ぎれば、店の裏庭に張られた洗濯ロープには、隙間なく衣類がかけられていた。
溜めに溜められた大量のタオル類が一斉に風にたなびくさまは、いっそ壮観ですらある。

 しかし、これでナギカの仕事は終わりではない。
洗い立てのタオルを一枚手に取る。石鹸で念入りに洗ってはみたが、黒ずみが目立つ使い古されたぼろタオルだ。
こういったタオルは、雑巾に降格である。

 息つく間もなく、ナギカは雑巾を片手に店内を見渡した。
曇りきった窓ガラス、油汚れの激しい調理場、砂だらけの床、埃の積もったテーブル。

「……よし!」

 気合を入れ直し、雑巾とほうきを構える。
こうなったら、徹底的に掃除してやる。

 ナギカはもともときれい好きなので、掃除は好きでやっている。
一宿二飯の恩返しというにはささやかかもしれないが、キレイにしておくに越したことは無い。
そんなこと、いちいち気にするような奴らではないかもしれないけれど。

 掃除していて気付いた、というか、前々から気づいていて気になっていたのだが、食堂の窓と窓の間、壁を向いて置かれた意味不明なソファー。壁にぴたりとつけられたそれの中を背もたれ側から覗き込む。中には毛布やタオルがぎっしりと敷き詰められていた。

「……ナニコレ」

 先ほど使用済みタオルの山をやっつけたばかりなのに、こんなところにも洗濯物の山が? と、ナギカが手を伸ばそうとしたとき、ものすごい勢いでカインが飛んできた。

「あー! そこは掃除しなくていいよぉー!!」
「いやでも……というかこのソファーは何なの? これじゃ座れないじゃない」

 至極当然のことを聞くが、カインはブンブン首を横に振るだけだ。
強引に片づけてしまおうかと手を伸ばした時、エルーニャがどや顔で答えた。

「ナギカ鈍感なの! 男には探られたくない秘密の一つや二つがあるもんなの!」
「あっ、そう……」

 ナギカはそれ以上、ソファーに対して追求するのをやめた。二度と探るまい。

 そして数刻。時刻は正午を過ぎたころ。

「すげぇ……」
「ピカピカになったのー!」

 年季が入っているうえに、椅子やテーブルの種類がバラバラなので見栄えはどうにもならないが、飲食店らしい清潔感は出せたと思う。我ながらいい仕事をしたとナギカは満足げだった。単に床を掃いて、テーブル類を水拭きしただけなのだが。

 その時、ガランとドアベルが鳴る。

「何、新装開店でもすんの?」

 朝方別れたばかりのブレイドが戻ってきた。

「札を見てないのか、今日は店は開けないぞ?」
「おっ、カイン戻ってたんだな。じゃあちょうどいいや」

 ブレイドの言葉と同時に、ガランとドアベルが再び鳴る。
決して小さくはないはずのドアを窮屈そうに出てきたのは、三人の見覚えのある獣人たち。

「また会ったな」
「イギー!」

 虎頭のイギーに続いてライオン頭のジャギ、熊頭のランカーが続く。

「俺たちのことも忘れていないだろうな?」
「ジャギ、ランカー……なんか、久しぶりな気がする」
「実はそうでもないのだがな。近いうちにまた会えると言っただろう?」

 時間の感覚も相当狂っているが、あれからいろいろとあったのだ。

 大柄な獣人が三人も並ぶと、一気に室内が狭く感じる。獣人たちは自らの体の大きさを心得ているようで、壁際に寄った。すると三人の獣人の他にもう一人、見慣れない成人男性が入店していたことに気づいた。

 黒髪の青年だ。一見、亜人の特徴である獣の部分は見当たらない。
ナギカでもわかるほどに身なりはよく、心なしか動作に気品があふれ、青年が前を通るとき、獣人たちとブレイドの背筋はすっと伸びた気がする。

「やあカイン、こんにちは」
「ジーク、帰って来てたのか」

 知り合いなのか、カインは青年ジークと気さくに話す。

「やっと荷物の運び込みが終わったところだよ」
「あぁ、なんかこだわってたブランドのやつか」

 ジークは爽やかに報告するが、カインは興味がないのかそっけない返事をした。

「わざわざサンドランドから持ち込むのは大変だったんだぞ。いちいち検問も通らねばならなかったしなぁ」

 イギーの言葉に、残る二人の獣人も「うんうん」と唸りながら頭を振った。

「最初にナギカたちを拾った走竜に積んでた荷は、大体ジークの荷物や家具だ」
「あぁ……」

 どうりでやたらと狭いと感じたわけだ。
とは言っても、獣人たちとの初対面であったあの時は、疲れと緊張で荷台の中をまじまじと観察する余裕もなかったため、うろ覚えであるし、そもそも獣人三人もかなり体格が良いので、何が荷台に乗っていようとも狭く感じた気はするが。

 そこで初めてジークとナギカの目が合う。
ジークはにこやかに、ナギカに向かって自己紹介をした。

「君も降臨者だという事はジャギたちから聞いているよ、ナギカ。私はジーク・アステリア。アステリア王マジノの弟だよ」
「弟!? 全然似てないけど」
「腹違いってやつだからね」

 腹違い、という単語にナギカはぎくりとするが、ジークは特に気にしていないようだ。
黒髪であるという部分は共通しているが、ジークとマジノは本当に半分も同じ血が流れているのか疑わしいほどに似ていない。マジノ王は下品な王様という感じだったが、ジークはどちらかというと王様というよりは上品な王子様といったところか。

「マジノ王は優秀なジークを恐れて、サンドランドに留学させたのさ。留学という名の監禁をするようサンドランド王に掛け合っていたみたいだが、実際はどうだったんだ、ジーク?」
「サンドランドは良い国だ、とても勉強になった。王と、王妃にも盛大な歓迎をしてもらえたよ。聖獣のおかげで水源に恵まれ、実りも多い。元は資源の枯渇した国だったせいか、貿易が盛んで伝統工芸品の質も良い。職人の技をこの目で見てから、家具一式はサンドランド製で揃えると決めたんだ」

 サンドランドという国の情景を一つ一つ思い出すようにジークは語る。それだけで家具への並々ならぬ熱い想いは伝わった。
なぜそこまで家具に想いを注ぐのか、気になり始めて聞いてみたいと思ったとき、ジークは唐突に言い放った。

「決めたんだ、私は正式に、まりあにプロポーズをするぞ!」
「えっ、えええぇ!?」
「ジークカッコイイのー!」
「フラれることは考えないとは、さすがジーク! てか、交際じゃなくていきなり結婚を申し込むのか……?」
「ダメかい?」
「……」

 突然のプロポーズ宣言にナギカは悲鳴を上げるが、エルーニャとカインはジークをもてはやし、他の者はジークの想いを知っていたのか、特に大げさには驚かずに笑って祝福した。

「まりあって……あのまりあ?」
「ナギカも彼女に会ったのかい? 彼女は素晴らしい女性だよ。サンドランドへ留学する前から気になっていて……一目惚れだったのさ」

 ジークは当時のことを思い出したのか、少し顔を赤らめた。

「留学でここを離れるのは悲しかったよ。もう二年も前の話になるのか」
「でもジーク、まりあはもう……お前のことも覚えていないと思う」

 ジークの言うことが正しいならば、まりあは二年以上この世界にいるという事になる。

 懐かしむようにジークが言うと、カインは今のまりあの状態を告白した。
まりあは記憶を失って、つい最近の出来事しか覚えてはいない。つまり二年前に会ったきりのジークのことは、覚えていないはずなのだ。

「まりあのその件はジャギたちから聞いたさ。でも、私は君に感謝しているんだよ」
「ジーク……」
「彼女には一度フラれているが、記憶を失ったのなら、再びチャンスがあるという事だろう?」

 そう言って、ニッと笑った顔はなぜかマジノ王を連想させた。
姿かたちは似ても似つかないが、半分同じ血が流れているのだと実感する。

「それに、何のためにわざわざサンドランドから家具を取り寄せたと思っているんだ。私は、欲しいと思ったものを諦めないぞ」

 まるで山賊のようなセリフをジークは上品に語る。
見た目や身振りに現れる気品が、彼は有言実行するだろうという謎の説得力を持たせてしまっている。

「獣人差別のないサンドランドに留学して分かったとも。獣人を迫害したところで何も生み出しはしない。加えてアステリアは貧しい。今は帝国軍の温情で攻撃を受けていないだけで、戦争としては実質勝負がついている。このままでは、アステリアは滅ぶだろう」

 それは紛れもなく、自国の将来を憂える王族の言葉だった。そして彼は、責任を誰かになすり付けることも、問題を先延ばしにすることもしない王族の鏡のような男だ。

 マジノ王は人間であるがゆえに、人とかけ離れた姿をした獣人をことごとく嫌っている。それこそ聖騎士団の権限を私物化して、獣人狩りをさせるくらいに。
行き場を失った獣人の多くは身をひそめてアンダーグラウンドで暮らすか、国外に逃れている。同じような境遇のジャギ、イギー、ランカーは運よく獣人差別に反対していたジークに拾われ、以降は従者としてジークに仕えているのだ。

 アステリアの民はそのほとんどが亜人で、亜人と獣人の間には姿かたち以外で明確な区別があるわけではない。
突然変異的に、誰しもが獣人を生む可能性を持つ為、多くの民は差別に反対するジークの思想を内心支持しているようだ。

「私は兄マジノを倒し、アステリアの王になるぞ」

 力強く謀反を宣言した彼に、従者であるジャギ、イギー、ランカー、ブレイドは無言で頷く。

「おれは手を貸さない」
「『イソラ』の手は借りない。これは私たちアステリアの問題だ。国の問題は王と民で解決するさ」

 興味がなさそうなエルーニャを除いて、唯一頷かなかったカインにジークは静かに答える。
王と民の中に、カインは入っていないという事なのだろう。イソラとはいったい何なのだろうか。

「そうと決まれば、さっそくまりあにプロポーズしに行かなくてはな! ブレイド、飛竜を出してくれ」
「今から!?」
「相変わらず行動が唐突ですね!」

 突然指名されたブレイドが慌てて外に飛び出していく。ジャギたちもジークの奇行にツッコミを入れるが、決意は固いのか既にプロポーズは今日中にすることに決めたらしい。

「八人か、乗れるかな……?」

 ジークがポツリとつぶやいた人数は、おそらくこの場にいる全員の事だろう。さらりとナギカも入っていることに驚いたが、ブレイドの連れている飛竜は、どう考えても八人は定員オーバーだ。

 準備を終えたのかブレイドが再び顔を出す。すると今まで黙っていたエルーニャが言い放った。

「まりあを連れてくればいいのー」
「……おぉ!」

 それは名案とばかりにジークが手のひらをたたく。

「三十分で戻ります!」

 そう言ってブレイドは再び外に出て行った。
恐らく、本当に三十分程度で戻ってくるだろう。

 ブレイドが出て行ったのを見届けて、ジークはさっそく今後の予定を話す。

「カインには料理を頼もうかな?」
「随分と自信があるようだが、勝算はあるのか?」
「二年前と好みが変わっていなければ、な」

 獲らぬ狸の何とやらにならなければ良いのだが。
心配をよそに、ジークは自信たっぷりにほほ笑んだ。

 リクエストに応えて、カインはピカピカになったキッチンで肉を焼き始める。
肉とはいっても、ディナーに出すような大ぶりのステーキ肉などではなく、ランチと言うにふさわしい軽めのものだ。食糧庫から人数分より多めの材料を出してきては、てきぱきと調理し始める。
相も変わらず見慣れない光景だ。
ナギカに刷り込まれたイメージでは、カインが料理を得意としているなんて、何度この目で見ても信じられないのである。

 テーブルに料理が並び始めたころ、再び外が騒がしくなった。予測していた三十分よりも早い。
ドアベルの音と共にブレイドが顔を出す。その後ろに続いて現れたのは、まりあとフィリアだ。

「あの……」

 突然店に呼び出され、そこには結構な人数が待ち構えていたら誰だって萎縮する。
恐る恐る、といった感じで店内に足を踏み入れたまりあのもとに、ジークが歩み寄る。

「『はじめまして』……まりあ」
「はじめまして」

 やわらかい口調とほほ笑みで、ジークは不自然な挨拶をした。
しかしまりあは特に疑問は抱かなかったようで、ごく普通に返事を返す。

 見ているこっちは、正直ハラハラしている。
初対面で名前を知られていたら奇妙に感じるのではないかと、ナギカはカインと一番初めに出会った時のことを思い出しながら眺めたが、まりあの方は特に気にはしていないようだ。

 当事者以外の全員が、固唾を呑んで成り行きを見守る。

「君は覚えていないかもしれないが、私はジーク・アステリアという。君のことは二年前に街で見かけて、一目で好きになった。今も私の気持ちは変わらない」

 言いながらジークは片膝をついた。懐から取り出したベルベットの箱には、細工の施された銀色のリングが収まっている。

「私と、結婚してほしい」

 シンプルな一言だが、紛れもなくプロポーズの言葉だ。
店内とはいえ大勢が見守る中、突然初対面の男性からプロポーズされる。ナギカはそういった憧れは無いが、まりあの顔色を見るにこれは……もしかしたら、もしかする。

 これで断られたら、ジークが恥ずかしい目に合う奴だ。

「……はい」

 真っ赤な顔で、まりあは頷いた。肯定だった。YESの返事だった。
まりあは交際をすっ飛ばして結婚の申し込みにOKを出した。
外野がどうこう言う権利はない。本人が良いと言っているのだから。

 箱から取り出された銀色のリングは、ナギカが知っている慣習通り、スッと左手の薬指に収められた。

 ワッ、と歓声が上がり、二人に盛大な拍手が贈られた。事情を知らないであろうフィリアも、純粋に祝福の言葉をかける。

「おめでとうジーク! さぁ、料理が冷めないうちに食べてくれ」

 カインが言い終わるか終わらないかのうちに、イギーとエルーニャがテーブルについて料理を取り分ける。この二人に関してはお祝いしたいというより、単純におなかが減っていたのであろう。

 ジークはまりあの手を引いて席にエスコートする。さすが王族だけあってレディーファーストの動作は完璧だ。二人はちっとも気にしていないが、ここが高級料亭のような装いでないことが本当に悔やまれる。

「……またフラれるかと思ったのに」

 ジークたちに聞こえないように、遠い席についてブレイドがボソッと呟く。確かに。
正直なところ、まりあがOKした理由が、ナギカには見当もつかない。
お祝いムードの中、ブレイドと二人で唸っていると、カインがこっそりと補足を入れてきた。

「まりあは……面食いなんだよ」

 その一言でナギカの疑問は解決した。
そして最初のプロポーズを断ったのは、まりあがまだ元の世界に戻ることを諦めていなかったからではないかと予想した。それも、今となっては真相は分からないが。

 まりあの様子を見る。ジークと二人、何かしらの会話を楽しんでいるようだ。

 親交はこれから深めるにしても、相手は王族。見目は文句のつけようがないほどに良い。この世界で生きていくなら、何も心配することは無い最高の相手だろう。それでもナギカの心中は複雑だった。

「うわーなんだこの空気、砂糖吐きそう!」

 ペッ、ペッと唾を吐く真似をしてカインが茶化す。しかし同意したいくらいに部屋の空気はやたらと甘い。
目の前であからさまにイチャイチャし始めるわけでもなく、微妙な距離を保ちながらも、テーブルの上でお互いしっかり手を握っているあたりが甘い。
べらべらだらだらとしゃべり始めるわけでもなく、ぽつぽつと会話しながらも、ちょいちょい目を合わせたり顔を背けたり、頬を染めたりしているあたりがすごく甘い。
リア充かよ。付き合いたてのカップルかよ……その通りだよ!

 ふとフィリアの様子が気になったのか、まりあがジークから距離を離した。その間、ジークにカインが接近する。

「しかし問題なのは、どうやってマジノを玉座から引きずり下ろすんだ?」
「簡単だ、殺せばいい」
「は?」
「私がこの手で、マジノを殺す」

 こっそりと物騒な会話が、未来の花嫁の目の前で行われている。
腹違いとはいえ、マジノはジークにとっては兄である。身内をこの手で殺すと、白昼堂々と宣言しているのだ。

「しかしまあ、今は祝ってくれ。いずれ盛大に披露宴を行うときは、君にケーキを頼みたい」

 昼間なので酒は出ていない。
ジークはいたって素面でカインに約束をこぎつけた。

 その一方で、まりあとナギカの間でもやり取りがあった。
昨夜の態度を気に病んでいるのか、お互い少し気まずい空気だ。

「ナギカ……あたし」

 ジークと会話していた先ほどまでの甘い雰囲気は無くなり、複雑な表情でまりあはナギカに話しかける。そして首の後ろに手をやって、自らペンダントの留め具を外した。

 それは赤い宝石以外に特徴のないシンプルなペンダントで、首から外しても、昨夜のようにまりあの様子がおかしくなることは無かった。

 まりあはゆっくりとペンダントを差し出す。ナギカは手のひらでその小さなアクセサリーを受け取った。
まりあの左手には、貰ったばかりの銀色のリングが光り輝いている。

「あげるわ。あたしはもう、大丈夫だから」
「でも……」
「いいの」

 受け取ったところで、特別な力を感じたりはしない。
それはごくごく普通の赤い宝石のペンダントに見える。しかしナギカにはこのペンダントが何を意味するのか、わかっていた。

「あたしもう、帰れなくてもいいの」

 何の変哲もないこれは、まりあを元の世界につなぎとめていた、記憶以外の何か、だった。そしてそれは、ナギカの手に渡ったことにより、完全に消えてしまったのだ。

 まりあは必死に、まるですがりつくように言う。

「ナギカお願い。あたしと友達になって」

 ナギカは苦笑した。もうとっくに友達になった気でいたから。

「うん。おめでとう、まりあ」

 ナギカは、友人の結婚を心から祝福した。

 それからは、今まで通り。

 店内にいるメンバーは皆カインの料理をむさぼり、話し込み、夕方近くまで居座った後、それぞれの目的の準備のために解散した。

 ジークとまりあはというと、婚約した当日から同棲……とはいかないらしく、ジークの準備が整うまでは、まりあの店にジークが通うことになったようだ。一応、一緒に住んでいるフィリアも公認である。
そのジークの準備というのは、マジノ王に一泡吹かせることであるので、しばらくは表立った行動は無く、水面下で動くとのことだ。そもそもマジノ王は、ジークがアステリアに帰ってきていることを知らない。

 一気に人が減って、店内はナギカとカインとエルーニャの三人だけ。
途中で料理の追加もあったので、洗いものの数も倍近く増えた。今までのように使用済みの皿を放置することは許さず、ナギカはテーブルから食器を撤去すると、汚れがこびりつかないうちにちゃっちゃと洗った。
エルーニャは食器を下げて、テーブルを拭くところまでは手伝ったが、カインは相変わらず、片づけは一切手伝っていない。例の壁向きのソファから、こちらの様子をうかがっている。

「魔法で水も出るし、洗剤もあるんだから、毎回きれいに片づけなさいよね。あんた商売する気あるの?」
「今までだって普通に客は入ってたし……」

 言い訳をしながら、カインは尻尾をブンブン振った。
せっかく片づけたのだから、当面はこの状態をキープさせなければ。

「カインちゃんは何言ったって絶対片付けないの。ナギカが片づけてくれればいいのー」

 ナギカが洗った皿を、一枚一枚乾いたタオルでふき取りながらエルーニャが言う。

 確かに、降臨者だからと言ってタダで居候するのは気が引けるが、カインの店の手伝いとして置いてもらっていると思えば悪くはない。
不潔で汚いゴミ屋敷に住むのは我慢ならないが、今日半日片づけた程度で清潔感は戻ってきた。
散らかっているだけで、元々そんなに汚れていたわけではないのだ。
ゴミ屋敷飲食店の汚名は返上したと言ってもいい。

「あっ、そうだ……これ」
「?」

 ソファから出てきたカインが何かを差し出そうとしたので、素直に受け取る。
手のひらには小さな金属片が乗った。金属片、というか、これは……

「うちの店の合鍵」

 いやいやいや、合鍵って馬鹿か……愛人でもあるまいし。

「今、おれのこと馬鹿にしたろ。エルーニャにも渡してるぞ。おれがいない時でも好きに使っていいよってこと」
「置いてくれるの?」
「元々そのつもりで拾ってきた。他に行く当てが見つかるまではいいよ」

 ナギカは手にした鍵をよくよく眺めた。銀色の、何の変哲もない小さな鍵だ。

 ふと、気になった。そういえばここは飲食店なのだ。

「そういえば、この店の店名って、なんて名前なの?」
「おれの店? 名前はアイオン。食べ物なら何でも出す飲食店」
「アイオン……?」

 聞きなれない単語だが、何となく、似合わない気がした。

「……変な名前」

 少し吹き出しながらつぶやいた瞬間、部屋が暗くなる。
もう何度目だろうか、夜が訪れた。すぐにカインは店内のライトに指先一つで火を入れる。

「もう夜なの。相変わらず早いのー」
「今日はもう疲れたから店じまい! おれは寝る!!」

 カインはそう言って壁向きソファの中にダイブした。
要するに、あのソファの中がカインの寝床、という事らしい。食事処と寝床が同じ場所にあるのもどうかと思うが、そこはもう突っこむだけ無駄な気がするので、触れないでおこう。

 エルーニャは店のドアのプレートが「クローズ」になっていることを確認して、鍵を閉めた。
なるほど、こういった作業を見ると、お店をやっているんだなぁというのが感じられて良い。まりあが、自分のお店を持つのが夢だったと語るのもわかる。
職業体験みたいで、少し楽しいのだ。

「エルーニャももう寝るのー」
「じゃあ、明日から本格的に営業頑張らないとね」

 夜になってしまったため、裏庭の洗濯物は明日取り込む事にする。

 エルーニャと二人で二階へ上って、干しっぱなしだった毛布を取り込み、床に敷く。
大掃除はしたが、汗をかいたわけではないのでお風呂は諦めて、服もそのまま毛布にくるまった。毛布は干したての、懐かしい日のにおいがした。

 手元にはまりあからもらったペンダントと、アイオンの鍵。
ペンダントは身に着けようかとも思ったが、鍵と一緒に枕元に置いた。
後で、普段から持ち歩けるような小物入れか何かにしまっておこうと考えて、目を閉じる。

 眠れば今日、来る気はしている。ソフィアの願いを一つ叶えたのだ。
そしてそれはすぐに訪れた。
いつもの、夢のような、夢じゃない夢が。

 荒野に立つ、白いワンピースの女性。
階段を残して崩れ去った建物と、すぐ側に置かれた白いガーデンテーブルとイス。湯気をたてるティーカップ。
最初に会った時と何一つ変わらない風景。

 ナギカは手の中を確認した。
枕元に置いていたはずのペンダントと鍵が、しっかりと握られていた。
ペンダントの石が見えるようにして、ソフィアに向けて突き出す。

「ソフィア、あなたの探しているペンダントはこれ?」
「ふふふ、本当に、取り返してくれたのね。うれしい、うれしい」

 ソフィアはナギカの掲げるペンダントを見て笑う。
それは自然にこぼれる笑みではなく、作り物の笑い。ナギカの背筋にうすら寒いものが走る。

 彼女はペンダントを受け取ることはせず、芝居がかった動きで両腕を広げた。

 瞬間、彼女の頭上に赤く光り輝く円形の文様が現れる。そのあまりの禍々しさに、ナギカは一歩後ずさった。
すると、なぜ今まで気づかなかったのだろうか。ソフィアの足元に見える影は、人の形をしてはいなかったことに気づく。ゆらゆらとうごめく巨大な影は、ソフィアの体よりもはるかに大きい「人ではない何か」の影だ……まるで、そう、異形のような。

 ソフィアが目を開く。碧眼だったはずの彼女の瞳は赤く染まっていた。
血よりも濃く、深い赤色に。
その色には既視感がある……カインと、同じ色だ。

「これで、やっと……やっと世界に誕生できる」

 視界が光に包まれた。いや、光に包まれているのはナギカの体だ。
白い光の粒子に包まれ、つま先が、足首が、太ももが消える。

「『ソフィア』さえ産まれれば、異形もシャドウもいない世界を作れるわ。ありがとう。じゃあね、ナギ」

 次第に光に溶けていく視界。
直感で、元の世界に帰れるのだと思った。
軽い浮遊感を感じて、体の感覚が消える。

 頭の中に、ソフィアの楽しそうな声が響いた。

「うふふ……また、遊びに来てね……」

 もう誰もいない荒野に笑い声が響く。

 重力が戻ってくる。体の感覚も。

 そして目を開くと、そこは見慣れた道。いつもの帰り道。
ナギカは何事もなかったかのように、二本の足で立っていた。
周囲を見渡しても、見慣れたもの以外は何もない。うっそうとした森も、二つの月も、現実感のない城も、時代錯誤の街並みもない。
ここはコンクリートで囲まれた、世界一安全な都会の真ん中。

 何か、忘れている。
とても大切なものを置いてきた気がする。

 せっかく戻ってきたのに、現実感が果てしなく遠い。
もしかしたら、すべては夢だったのかもしれない。

 魔法も、魔物も、シャドウも、異形も。
ソフィアに言われたことも、まりあに会ったことも、カインに助けられたことも。
全部、全部夢だったのかもしれない。
こことは別の世界で過ごした数日間は、この世界でほんの一瞬見た白昼夢だったのだとしたら。

「全部、夢……?」

 ナギカは硬く握り込んだこぶしの、手のひらの違和感に気づいた。
そっと開く、赤色が見える、銀色が見える。思わずグッとそれらを握りしめる。確かに在る。このてのひらの中に!

 心臓が跳ねて、居てもたってもいられず、思わず駆け出した。

「夢……じゃない!」

 ソフィアとおそろいのペンダントも、カインに貰った合鍵も、しっかりと握りしめていたから。

アイオンの鍵 降臨者 終

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