ほんの二、三メートルの距離。
駆けつけたナギカはまたしても驚く。
(えっ……綺麗になってる!?)
カインがキッチンに立って、まだそんなに時間は経過していないはず。
なのに、洗われずに放置されていたと思われる汚れのついた皿等の食器、油まみれのフライパンと散らかりっぱなしのシンク等、今まで見ていたのが幻だったのかと錯覚するほどに、綺麗に片づけられていた。
いや、正確には片づけられてはいない。散らかりっぱなしの位置そのままに、皿は真っ白綺麗に、フライパンは油汚れ一つなく、シンクは洗いたての輝きを取り戻していたのだ。
「ちょっと、どうなってるの……?」
思わず心の声そのままに呟いてしまった。カインが振り向く。
何となく、腹立たしいドヤ顔に見えなくもない。
「これは魔法で……」
「また魔法か!」
シンクの中に、洗剤もスポンジも見あたらないのはそういうことか。
皿洗い魔法もあるなんて……魔法、何でもありだな……
しかし綺麗であるにこしたことはない。なぜ普段からやっておかないのか。
何となく全員でテーブル席に着いた。
こうして見渡してみると、室内は統一感はないが小綺麗で、調理風景が見えるレストランみたいだなと思う。
カウンター席もあるし、バーなのかも。でもテーブルや椅子の雰囲気的には中華っぽいが、壁を向いているソファーだけがなんだか別世界だ。
カインはどこから出したのかわからないが、ずいぶんと大きな肉の塊を焼き始めた。香ばしい匂いが部屋中に広がる。
よくわからない肉を、よくわからない香辛料で焼いているだけなのに、ここに来てからまともな食事をとっていなかったせいか、やたらと食欲を刺激される。
口の中がよだれで溢れた。思わずゴクリと喉が鳴る。いつの間にか服を着替えていた獣人の少年なんて、よだれも垂らしていた。せっかくの新品の服が……
けれど良かった。焼く匂いに反応するってことは彼、生肉を食べて生きているわけじゃないんだな。
カインの手際はもはや神業と言っても良いレベルだった。
あっという間に一品二品と品数が増え、そのどれもが見た目はおいしそうだ。見た目は。
シンクの下の扉の中から次々と食材が出てくるのは気になったが(冷蔵庫なのかな?)、出来上がる料理は問題なさそうに見えるので、深くは追求しないことにする。
その時、唐突にナギカは突き飛ばされて椅子から転げ落ちた。
見れば少し怒った表情のエルーニャがいる。
「働かざるもの食うべからずなのー! 手伝うのー!」
そう言ってエルーニャは獣人の少年の事もド突いていた。
余談だが、そのツッコミは「ぺちっ」なんてかわいい効果音ではない。
鈍器で殴られたような音がしていた。大丈夫なのだろうか。
「食事代くらいは働けよー」
「えっ、お金取るの!?」
「当たり前だろ。ここをどこだと思ってるんだ」
確かに、お店っぽいなあとは思っていたが、降臨者であるナギカがこの世界の通貨を持っているはずがない。
まさか、目の前にご馳走があるのに、ここでお預けを食らうとは……!
そして大変失礼かもしれないが、聖騎士団にリンチされていた獣人の少年も、とてもお金を持っているようには見えない。
そこで唐突にナギカは獣人の彼の名前を知らないことに気づく。
「あっ、そう言えば君、名前なんていうの?」
聞けば少年も驚いた顔をした。どうやら彼もそのことについては忘れていたらしい。
「アルフィーだ。ごめん、名乗るの忘れてた……」
「いいよ、それよりアルフィー、あなたお金持ってる?」
「いや……ない、けど……」
きっとアルフィーもナギカと同じ事を考えているだろう。食べないという選択肢はないのだ。
「ねぇカイン、食事代、皿洗いとかで良い?」
とっさにそう言ってから、しまったと思った。
使用済みの皿を一瞬でピカピカにしてしまえる魔法を使えるのに、わざわざ皿洗いなんか手伝って、意味があるのかと気づいたのだ。
しかし意外にもカインは「じゃあそれで」と快諾した。
「え、でも魔法で何とかなるんじゃ?」
そう聞くと、出来上がった料理をせっせとテーブルに運びながら、今度はエルーニャが言う。
「いちいちちゃんとやってたら、ああはならないの……」
見事に最初に見たときと同じ汚れ具合になったシンクを指して、しょぼくれた顔で答えてくれた。確かに。
「それで、お前はなにができるんだ?」
次にカインはアルフィーにそう聞いた。
一緒に皿洗いでは駄目かとナギカは聞こうとしたが、それより先にトリトが口を開いた。
「アルフィーの分、今回は僕が払いますよ」
「え、でも……」
「獣人なのに生き延びられた記念です」
「……ありがとう」
ドンッ、と目の前に大皿が置かれた。これで料理は全てらしい。
いそいそとエルーニャが全員分の食器も用意する。
銀色のナイフとフォークとスプーンだった。馴染みのある食器の登場に驚いたが、良かった、これなら使える。
カイン以外の全員が、ずらっと料理が並んだ丸テーブルについた。
大皿に盛られた料理を各々が自分の皿に盛りつける。日本では自分の分が盛られた食事を食べるので、こういったスタイルは新鮮かもしれない。
郷に入っては郷に従え、なるほど、ナギカは感心しながらみんなを真似して、自分の皿に好きなだけ料理を盛りつけた。大皿はあっという間に空になった。
「いただきまーす」
まずはスープをひとくち。
「う、うまいっ!!」
思わず声に出してしまうほど、うまかった。原料も味も例えられないくらい訳が分からないが、とにかくおいしかったのだ。
「それで金取ってるからなー」
テーブル近くのカウンター席に座ったカインが言う。
彼の目の前に料理はない。
「あんたは食べないの?」
「おれの口には合わないんだよ」
「ふーん……」
「お世辞ではなく、確かに彼の料理は絶品ですよ。不思議ですね、自分では食べないのに」
「エルーニャも、カインちゃんの料理は好きなのー」
談笑しながらも、みんなぺろりと料理を平らげていく。トリトもエルーニャもアルフィーも、おいしいおいしいと言いながら食べると言うことは、やはり味覚も人間とほぼ同じなのかもしれない。
シャキシャキとした野菜が添えてあるステーキ肉を口に入れ、ナギカは幸福と肉を噛みしめながらも、思った。
(おいしい……確かにおいしい、けど、何の肉なんだろう。牛でも豚でも鳥でもないような……でも、臭みはないしジューシーだし、おいしい……けど何の肉なんだろう!!)
ナギカが心の葛藤を続けていると、先に食べ終わっていたアルフィーの様子がおかしいことに気づく。
心なしか、涙ぐんでいるようにも見えた。
「どうしたの?」
「いや、オレ……温かい料理食べるの、久しぶりで……」
「……そっか、私もうお腹いっぱいだから、これも食べなよ」
そう言って半分に切ったステーキ肉をアルフィーの皿に盛った。
「いいのか!?」
アルフィーは驚いたように顔を上げた。お腹がいっぱいなのは半分本当だ。「いいよ」と声をかけると、ぱぁっと表情が明るくなった。顔は猛獣だが、正直かわいい。
チラッとカインを見た。彼はこちらの様子をただただ見ていた。
食べ終わるのを待っているのかもしれない。
(何の肉かは、聞かないでおこう)
聞いてもどうせわからないような気がした。
「う~ん……」
カインがうなる。考えていると言うよりは、困っている様子だった。
「どうしたの?」
「アルフィーのことなんだけどな……」
あっという間に全て食べ終わったアルフィーが、カインの方を向く。
「今回はたまたま運が良かったとしても、これがずっと続くとは思えない。今のアスター王でいる限りは、獣人の迫害は続くだろうし、お前にろくな働き口があるとも思えない。どうせ家も出てきたんだろう?」
「……」
アルフィーは黙って聞いていた。ナギカにはアスターの事情はまだよくわからないが、獣人にとってアスターで生きることは相当厳しいのだろう。
「だから、お前さえよければ仕事を紹介してやるよ……帝国軍で働いてみないか?」
「えっ!?」
その言葉に過剰に反応したのは、アルフィーではなくトリトだった。
「でも、帝国軍は……」
何かやばい国だって、トリトが前に言っていた気がするけど……
「トリト、どうせ帝国軍に行くならアルフィーも連れて行ってくれないか。第三基地だろ?」
「……どうして僕が帝国軍に行くって言い切れるんです?」
「行かないのか?」
「……いえ」
トリトは口ごもった。
「大丈夫なの? その、帝国軍に行ったら、殺されるかもしれないって言ってたじゃない」
「あぁ、大丈夫ですよ。獣人は」
「え?」
「第三基地ならトリトとおれの知り合いがいる。エリトとカズミによろしくな」
カインはそうトリトに言って手を振った。トリトはテーブルに代金らしき銀貨を置くと、アルフィーを連れて店を出て行ってしまった。
走竜の走り去る音が響く。
……さよならも何もない、あっけない別れだった。
「カインちゃんたちはどうするのー?」
「さて、おれたちも出ないと、もう行かないと日が落ちる。エルーニャ、アレ持ってきて」
「えっ、えっ?」
突然の展開についていけていないのはナギカだけだった。
せっせとエルーニャが汚れた食器をシンクに運び、テーブルの銀貨を引っつかんで階段の方へ行ってしまった。
そうだ、洗い物をする約束だったんだ。
腕まくりをしようとしたその時、入り口のドアベルがカランと音を立てて開いた。
「あれっ、今日休み?」
顔を出したのは、コスプレでしか見たこともないほど真っ青な髪色の青年だった。頭の上には同じく真っ青なケモ耳が見える。
犬か、猫か……そう思っていたら細長いしっぽが見えた。猫だ。しかも青い。
「今日は臨時休業!」
「なぁんだよ、うまそうな匂いがしたのにさー」
そう言いながら、青い猫の青年はズカズカと店の中に入ってきた。そしてバッチリと、目が合ってしまった。
「あれ……もしかしてこの子、降臨者?」
「そうそう」
「へぇー、じゃあアスター王に献上すんの?」
「えっ?」
献上って、何だ……?
そう思っていると、カインがため息混じりに言う。
「しないよ、あの王にはくれてやらない」
それを聞いて、ちょっと安心したのは内緒だ。
「けど顔見せに行かないとうるさいからな。ちょうどいいやブレイド、アスターの城まで送ってくれない?」
「お? いいぜ、ちょうど暇してたしな。その代わり、後で奢れよ」
ブレイドと呼ばれた青い猫の青年はそう言ってカインに釘を刺すと、「外で待ってる!」と言って出て行ってしまった。
彼と入れ替わるように、階段からエルーニャが降りてきた。
「持ってきたのー」
戻ってきたエルーニャは手に黒い服を持っていた。紫色の細長い布も一緒だ。
それをカインに手渡すと、カインは服を広げて見せながらナギカに説明した。
「城に行く前に着替えてもらう。こっちの黒いのはローブだ、大きいから服の上からそのまま着れる。髪は後ろで縛って見えないようにしてからフードを被れ。こっちの紫のは帯だけど、必ず腹側で結ぶんだ」
カインの言うとおりに黒いローブを頭から被り、紫の帯を腹側で蝶々結びにした。
正直結び方はこれで良いのかわからなかったが、前で結びさえすれば問題ないらしい。エルーニャから小さな紐を受け取って、髪もひっつめる。
鏡がないので確認できないが、これでフードを被れば怪しい魔法使いのようになっているだろう。
「これでいいの?」
「うん、よし、後は行きながら説明する。エルーニャ留守番頼むな」
「わかったのー」
エルーニャは手を振って見送ってくれた。
ドアベルをカランと鳴らして、ナギカとカインはあわただしくブレイドの待つ外へ出た。