夢だけど、夢じゃなかった。
というのは某有名なアニメ映画のセリフだが、ナギカは今、切実にそのセリフを口にしたいと思った。
目の前は玄関のドア。つまり、我が家である。
開けても懐かしいなどと感じることは無い。ただ、帰ってきただけなのだから。
「あ、姉さんおかえり」
ちょうど廊下の奥のトイレから出てきた弟のカズキが、ナギカを見つけて声をかける。少し久しぶりな気はするものの、あまりにもいつも通りの平和な自宅に、少しだけ不思議な気持ちになって、黙り込んでしまう。
弟には獣の耳や尻尾などはついていない。現実の人間なのだから当たり前だ。
何も言わないナギカをカズキは少し訝しんだが、結局そのままリビングへと行ってしまった。
しばらくして掃除機をかける音が響いてくる。父子家庭で、父親が出張で不在がちな桐沢家では、学校帰りにリビングの掃除をするのはカズキの役目なのだ。ちなみにナギカは今日の夕飯係だった気がする。
掃除はそれぞれ割り当てで決められているが、ご飯の当番だけは毎日料理を用意するのは大変なので、大体日替わりのローテーションで生活している。ナギカとクレアとカズキと、本来ならもう一人の弟の、キョウスケとで……
そういえば夕飯の材料も学校帰りに買うつもりだったのに、結局何も用意をしていない。
使う予定の材料とレシピが載ったスマホの買い物リストを開こうと、ポケットを探るがスマホが見つからない。それどころか、カバンがない。ナギカは今、手ぶらだった。更には、制服も着ていない。異世界で着替えた時の姿のままだ。
ポケットから出てきたものは、スマホではなく小さな銀色の鍵だった。
どうして唐突にそんなことをしようと思ったのか、ナギカにもよくわからない。
ナギカは玄関には入らずに、家のドアを閉めた。
バタンと音を立てて閉まる鉄製の玄関扉、そのノブの上。鍵穴の部分に、ポケットから出てきた鍵を差し込む。
玄関の鍵とはそもそもサイズが違う。ささるはずがないのに、スッと鍵は奥まで通り、カチリと音を立てて回す。
玄関を施錠する動作をしながらも、次にナギカは扉を開けた。
ガラン、とドアベルが鳴る。
二重ドアの内側に取り付けられた、来客を知らせる飲食店にありがちなベル。
「ほら、すぐ戻ってきたろ?」
「ナギカおかえりなのー」
白くて長い尻尾が生えた金髪の少年と、青い目の天魔の女の子が、テーブルからナギカを見てそう言う。
テーブルに肘をついてつまらなそうに視線を向けてくる少年と、うれしそうな女の子から視線を外し、部屋を見渡す。
サイズもデザインもバラバラなテーブルと椅子のセット。用途不明の壁を向いた不可解なソファと、少し大きめの、掃除したてのピカピカなキッチン。
たいして懐かしいとは感じない。つい先ほど見てきたばかりの、ありふれた異世界の光景だった。
ナギカは後退り、中には入らずそっと扉を閉めた。ガラン、と音がする。目の前には玄関の扉。
さしていた鍵を引き抜き、もう一度扉を開ける。
今度はベルの音がしない。ただガチャリと重い鉄の扉が開く音がするだけ。
そこに広がっているのは異世界、ではなく現実の世界。THE・自宅。
ナギカは脱力し、玄関前にへたりこんだ。
目の前がグルグル回転しているような錯覚に陥る。肉体的な疲れによるめまいではなく、明らかに精神からきているめまいだ。
くらくらする。ひょっとすると、とんでもないことが起きているのだ。
確かに存在している手の平のシンプルな銀の鍵。それを握りしめる。
複雑な手順も、転生も、長い待ち時間も必要ない。
必要なのは、この鍵と、鍵穴のついた扉だけ。たったそれだけでいい。
30秒もかからずに、現実と異世界を往復することができるようになってしまった。
インスタントラーメンを作るよりも簡単な、お手軽異世界旅行である。
のろのろと起き上がり、再び扉に鍵をさす。
勢いよく開かれた扉のドアベルもまた、ガランッと勢いよく鳴る。
視線だけよこして、カインがあきれたように言う。
「忙しないやつだな」
先ほどと同じ体勢で、カインとエルーニャがテーブルについている。
テーブルの上にはホカホカと湯気をたてる、大きめの肉がゴロっと入った、茶色いシチュー。
エルーニャが大きなスプーンで、一口ほおばる。プニプニの頬が肉で目いっぱいに膨れ上がり、もごもごとハムスターのように食べる姿はかわいらしい。
そうだ、今日はビーフシチューにしよう。
レシピに悩んでいたわけではないが、たった今夕飯のメニューが決まった。
バタバタとテーブルの並んだ店を突っ切って、二階へ上がり、置きっぱなしになっていた汚れた制服と鞄を引っ掴んで一階へ降りる。
テーブルのそばを横切るとき、ふわりと鼻腔をくすぐるシチューの香り。
自分で作るビーフシチューは、食べなれた当たり前の味がするだろう。だからこそ、カインの作ったシチューの味も気になる。
「……すぐ戻ってくるから、私の分取っておいてよ!」
捨て台詞のようにそう言うと、少年の反応を見る前に扉を閉じる。扉の向こうで二人が笑う気配がする。
現実の世界で夕飯を食べて、そのあとすぐカインのシチューも食べる気でいる。
それはどんな味だろうか。正体不明の肉を使ってはいるが、店をやっているくらいなのだから、きっとおいしいと思うのだ。
鍵を引き抜いて、玄関で荷物を整理して、ビーフシチューの材料を買いに、外へ。
現実と異世界を往復する。
それは想像するだけでも、なんだかすごく忙しくなる気はするけれど、これから訪れるであろう非現実的な生活を少しだけ楽しみにしている自分がいるのだ。
もうソフィアの声は聞こえていないはずなのに、あの楽しそうな笑い声が耳から離れない。
異世界のことについては疑問が尽きないが、ソフィアの事も、カインの事も、弟のことも……ナギカは深く悩むのをやめた。結局ソフィアが何をしたかったのか聞くことはできなかったが、近いうちにわかる日が来るだろう。何となくそんな気がするし、ソフィアの言うとおり「また遊びに」行くことになりそうなので、すぐまた会える気もしている。
全く根拠はないが、きっと何もかもうまくいく気がする。こんなに簡単に異世界と往復する力を手に入れてしまったのだから、もう怖いものなんてないのだ。
ポケットの中に入れっぱなしのペンダントから、心底楽しそうな笑い声が聞こえた気がした。
しっかりと鍵を握りしめて、スーパーへの道を全力で走る。
これが私と、私たちの、長い長い物語の、はじまり。
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