「日の巫女の物語」

日の巫女と従者

日の巫女、短いその一生。

 たとえあなたが清らかであっても、あなたは生まれる前から穢れを持っている。

 罪と穢れを避ける事。それは日の巫女には必要なこと。
巫女に必要な条件は、罪なき両親から生まれ、動物の血肉を避けた食事と異性との接触を避ける事、たったそれだけ。

「でもあなたという存在は、生まれた時から穢れているのです」
「……どうして?」

 巫女は従者に問うた。
日の巫女になる前の巫女は、穢れを避けながら従者と共に生活する。インフィニティという国は巨大な湖の中心にあり、特殊な船が無ければ他の国との接触がないため、穢れを避けるのに最適な国なのだ。ありとあらゆる情報、文化、穢れから隔離され、巫女は守られながら生きていく。生活は極めて質素だが、生活に必要なすべての仕事は従者が行う。巫女はただ生きて、食事をとり、神に祈りを捧げ、眠れば良い。日の巫女に選ばれるまでは、ただそれだけを繰り返す。
それなのに……従者は言う。あなたもすでに穢れているのだと。

「あなた自身に穢れは無くとも、あなたを産んだ両親は獣を殺し、肉を食べ、人を欺いて騙した経験があるからです。あなたが悪いわけではないが、あなたは両親の穢れを生まれながらに背負っています」

 巫女は黙った。それは確かに自分には今更どうしようもない事だ。
両親は善良だと聞いたが、自分が生まれるまでに一度も嘘をつかなかったことはないだろう。ここに来る前の巫女は両親と一緒に食事をとったこともあったが、巫女の食事と両親の食事では皿の中身が違ったような気がする。両親は肉も食べ、魚も食べ、鳥から卵もとっていたはずだ。

「あなたがここに、穢れのない状態で来ている事は本当に素晴らしい事です。しかし、穢れが全く無いという訳ではない。非常に穢れの少ない状態……と言うべきなのです。たとえ少ない状態といえども、穢れは巫女を蝕みます」

 それきり従者は穢れについて、巫女に語る事は無かった。
ふと、穢れについてのこの話を思い出したのは、日の巫女に就任してから三か月目の深夜だった。

 巫女は右目に激痛を感じて目を覚ました。
いつも気を失うようにして夜を迎える巫女は、従者に起こされる早朝まで目を覚ますことはない。しかしこの日は違った。まだ早朝にも早い深夜の時間、いつも従者に運んでもらう広い寝台の上、巫女は右目の激痛でのたうち回った。異変を感じてか、すぐに数名の従者が飛んでくる。

「どうしました巫女様!」
「め……目が痛いっ!!」

 従者のうちの一人が、目を押さえる巫女の手を剥がして右目を見た。

「痛い、痛い! 私の目、どうなってるの?」
「巫女様、落ち着いてください」

 巫女を蝕む穢れが、ついに自分にも牙をむいたと思った。
だが従者は誰一人慌ててはいなかった。すぐに薬が用意され、巫女にそれを勧めた。薬を飲み終えると身体を横たえられ、あたたかな毛布が従者によってかけられる。
薬を飲むと、すぐに痛みは和らいだ。それと同時に意識もぼんやりとしてくるが、巫女は努めて目を開け、従者たちの会話を聞こうとした。

「日の出までは?」
「後二時間と少しです。少々お休みになられれば大丈夫かと」

 従者たちは巫女の仕事の話を、巫女抜きで進めていく。
巫女の仕事は太陽を作る事だ。一日の始まりに打ち上げ、やがて消えてしまう半日しか持たない小さな太陽。

「では巫女様、お休みください」

 巫女の意識は数分と持たなかった。
誰も巫女の右目がどうなっているか、教えてくれる者はいなかった。

 朝になっても日は昇らない。この世界の太陽は日の巫女が作り出すものだからだ。
だから巫女が目覚めた時、まだ辺りは真っ暗だった。

「おはようございます、巫女様」

 部屋はロウソクで明かりが灯された。ロウソクの火は優しすぎて、部屋全体は薄暗い。
従者は慣れた手つきで巫女の朝の支度を済ませてゆく。巫女の洗顔、歯磨き、着替え、朝食の用意だ。全て、巫女のいるこの狭い部屋で済ませられるようになっている。巫女の部屋には、トイレもベッドも洗面台も風呂もクローゼットも食事のテーブルも、全てが揃っているのだ。
巫女はベッドから降りた足で、そのまま食卓の椅子に座れば良い。しかし巫女をベッドから降ろすのも、食卓の椅子を引いて座らせるのも、全て従者がやってしまう。それだけではない、洗顔も歯を磨くのも髪を整えるのも、全て従者が行う。

 食卓に巫女が座ると、目の前にサッと朝食が用意される。
今日はベリーとナッツのクレープ。かぼちゃとアボカドのサラダ。そして新鮮なフルーツのジュースだ。これらはすべてインフィニティで生産されたもの。ナイフとフォークを使って綺麗に平らげてゆく。
数時間前の激痛は見事に治まっていたが、なぜかナイフと料理の皿との距離感が分かりづらい気がする。何度かプレートにナイフをぶつけて大きな音を立ててしまったが、従者は誰も気にはしない。見て見ぬふりをしているというより、ここでは食事のマナーというのは無いようなものだ。たとえ手づかみで食べたところで、誰にも何も言われない。
食べ終わると、何も言わずとも従者がサッと食器を片づける。

 巫女は自分の右目が気になったが、この部屋に鏡というものはない。
巫女が使う食器は、プレートからカップやカトラリーに至るまで、全て銀で作られている。そして不思議なことに、それらは全て曇り加工がしてあるのだ。どんなにピカピカに磨いても、その銀色の表面に巫女が写り込むことはない。
裾も袖も長い日の巫女の衣装は、一人で脱ぎ着することは出来ないため、従者数人がかりで着替えを行う。巫女は着替えの最中、従者の一人に聞いてみた。

「私の目、今どうなってるの?」
「巫女様、お時間ですので……」

 着替え終わると小さな神輿に乗せられ、従者からはそれっきり回答を得ることはできなかった。

「食欲があるのなら、大丈夫でしょう」
「何も心配することはございません」

 巫女は神輿に乗ったまま、従者に担がれ部屋を後にする。

 向かうのは祭壇だ。そこで巫女は祈りを捧げて小さな太陽を生み出す。
従者によって祭壇の上まで神輿は運ばれる。
太陽を生み出した後、巫女は疲労でそのまま倒れ、意識を失うのだ。目が覚めるといつの間にか部屋のベッドに寝かされており、次の日になっている。

 一日の始まりから終わりまで、巫女は自分の足で歩くことはない。生活のすべては従者が世話をしてくれる。
だから、たとえ目が見えなくなっても不便はないのだ。
巫女はただ、生きてさえいれば良い。

 日の巫女になってから、約一年。
たったの一年で、巫女の身体はとてつもなく変化した。

四か月目に両目の視力を失った。
六か月目に左耳の聴覚を失った。
七か月目に両足と嗅覚を失った。
八か月目には左手と味覚を失い、十か月目に鼻と右耳を、十一か月目に歯と舌を失った。
身体は欠損していくのに、意識だけはいつまでもはっきりとしていた。恐怖を覚えるが、それも次第に麻痺していった。記憶も欠損しているようだった。

 手足が無くても、祈ることさえ出来れば日の巫女は日の巫女たり得る。
従者は巫女の世話を欠かさず、巫女が言葉を発する手段を失っても、なぜか従者と意思の相通は出来た。

 胴体をくの字に折り曲げるようにして、神輿の上で横たわる巫女に、『祈りを捧げよ』と、声なき声が聞こえる。
もはや息をするのだけでも精いっぱいの巫女が、ざんばらになった髪を振り乱し、叫ぶようにして小さな体からひねり出した魔力が、真っ白に燃えて天高く昇ってゆく。

 巫女はもうくぼみだけになったその両目で、確かに自分の祈りと命が『日』となり空に昇る様を見た。一日と持たない、たったの数時間で消えてしまうが、それでも世界を照らす正真正銘の太陽を……自分が、この命で作ったのだ。

 身体が、残った肉体が、ボロボロと崩れていく感覚を覚える。
日の巫女にとって唯一救いだったのは、一番最初に右目に激痛を覚えて以降、痛みとは無縁だったことだ。手や足が黒く壊死して崩れても痛みは無く、視力を早くに失い、部屋に鏡も無く、衣装の袖も裾も長いため、悲惨な自分の姿を自分で見ることも無かった。

 従者たちは起き上がることも、食べるもことも難しくなった巫女を決して見捨てなかった。それだけで巫女は幸福だった。唯一心残りがあるとすれば、巫女になって以降、誰にも名前を呼んでもらえていない事だ。その本名すら、自分でも記憶がおぼろげになっている。
首から上だけになった巫女は、祭壇に上ってくる赤い瞳の長髪の男を見た。日の巫女になる儀式の時に、一度だけ会った男だ。儀式の途中、日の巫女に名前を授ける祭壇の主。
目のない目で男を見上げる。男は、巫女の前に跪き、そして……

「おやすみ、イ・シェリ」

 日は落ちた。
まだ昼前だというのに、世界は暗闇に包まれる。
人々は急いで建物へ入り、明かりをつけてこの日一日を耐えなければならない。暗くなればシャドウが出てくる。

 インフィニティの鐘が、カーン、カーン、と絶え間なく鳴り響いている。日の巫女の死去を知らせる鐘だ。
日が落ちる時間がだんだんと早くなっていた為、日の巫女の命は長くないと、人々は薄々気づいてはいた。
気づいてはいたが、どうする事も出来はしない。ただ、死んでいった巫女に精いっぱいの祈りを捧げるだけだ。善人も悪人も関係なく、全ての人が日の巫女へ感謝し、今日一日を祈りに費やすのだ。
世界は悲しみに包まれ、やがて大いなる祈りに包まれる。そしてその祈りは、世界のどこかで新たな巫女を産むだろう。

 日は偉大だ。シャドウは日があるうちは出てこない。魔物も異形も、ヒトに害をなすモノたちは、日を苦手とするものが多い。
しかし、この世界には太陽が無い。大昔に神を殺してしまった代償だ。
誰かが、自らの命を犠牲にして日を作らなければならない。そのためのシステムが、日の巫女なのだ。

「ザイン様……」

 従者は長髪の男の足元を見た。
そこには何もなかった。日の巫女の頭も、髪の毛一つも。灰すら残らなかった。
消え方はまるで異形と同じ。それもそのはず、日の巫女は穢れると異形になる。だから生まれつき穢れの少ないものを巫女にする必要があるのだ。穢れ巫女にならないままに命だけをすり減らし、巫女の肉体は最後に『燃え尽きる』。

 呼ばれた男が振り返って、従者に告げた。

「明日に備えて、日の巫女を選んでおくように」

 今の日の巫女が死んだなら、巫女のうちの誰かが次の『日の巫女』となる。
それはつまり、次の犠牲者を選ぶ儀式だ。

 日の巫女の従者は、巫女の死を何度も経験してきた。
そして、これからも何度も繰り返すだろう。日の巫女の寿命は圧倒的に短いのだから。

 従者は赤い瞳の男を見つめた。日の巫女の命を太陽に変える祭壇の主。大昔に殺してしまった神と、そっくりな容姿と同じ名前を持つ男。

「明日からの日の巫女は、エリです」
「では、イ・エリの名を授けよう。明日の日の出の頃に、祭壇へ連れてくるように」
「……はい」

 人々は、明日からまた変わらぬ日々を送る事だろう。
一人の巫女の命と引き換えに。

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