「アベルの物語」

アベルとカイン

双子の片割れ、最後の物語。

 回数制限があると、無駄なことが出来なくて慎重になる。
ビビリなくせに好奇心旺盛な双子の片割れと違って、性格がやたらと慎重になったのも、きっとこのせい。双子の片割れ、正確にはスペアだけど。

 たったの6回、未来を変えただけ。どうかな? 未来、ちゃんと変わった?
最後まで一緒にいられなくて、ごめんね。

 生まれてすぐに本当の名前は取り上げられたけど、そんなことは問題じゃなかった。真名を失っても出来ることはあったから。

 新しい名前、本当はちょっと気に食わない。自分たちで名付けあったなんて、都合のいい嘘。カインは嘘をつけないから、俺がついた初めての嘘。
本当は偽りの名前も父親から貰った。カインとアベルなんて、未来は全部視えているくせに結末を知ったような名前を付けて。運命を変える気なんてさらさら無いんだろう、だからこその、この名前。
文句を言いたかったけど、父親には会う気にはならなかった。自棄になった訳じゃない。自分が同じ立場でも、同じことをするかもしれない。
先見の力を持っている奴らの考えることは分からない。

 塔の中に閉じ込められて、でもそこは二人でいれば完結した楽園だった。
外には何もない。なのにカインは外に出たがる。塔の外に降りかかる酷い未来も運命も、多分、知らないのはカインだけ。未来の出来事を直接教えるのはルール違反だから、遠回しに遠回しに少しずつ伝えてはみたけど、きっと気づいてはくれないだろう。記憶にも残らないかもしれない。
彼は幼すぎた。心の準備が必要だったけど、その時はもうすぐ傍まで迫っていて、時間を与えてはくれなかった。

「絶対に、誰が来ても開けちゃダメだよ!」
「うん」

 しつこいくらいに、念入りに念を押すけど無駄だろう。
彼はきっと、この扉を開ける。

「じゃあ、行ってきます……」
「いってらっしゃい」

 金色の目をキラキラさせて、先に塔を出るアベルを見送る。
どうしてアベルが先なのか……これは罠だ。分かっているのに避けられないのは、もう力を使い切っているから。
今のアベルには何の力も残っていない。翼もない、魔力もない、真名も取り戻していない。全部仕組まれた罠。もう、どうする事も出来ない。

 塔を出て、時空の歪んだ長く白い回廊を歩いていると、ここが天界だという事を忘れそうになる。わざわざ翼が無い者でも行き来できるように調整された長い通路。すれ違うものは誰もなく、他に通路や扉のない一本道だ。
リンゴの木のアーチを抜けると、天界の外に突き出すようにしてかかる屋根のない細く狭い橋が見える。その突端には台座があり、そこには赤い宝玉が納められている。

 宝玉から溢れるとてつもない魔力を感じて、アベルは無意識に手を伸ばした。が、橋にたどり着く前に宝玉に拒まれ押し返される。
あの宝玉はアベルのモノではない。カインのモノだ。

 結局リンゴの木まで戻って来て、当初の予定通りカゴにリンゴを詰めるだけ詰める。いつでも実がなっている黄金のリンゴの木は、神話に出てくる大層な名前の知恵の実の木などではなく、普通に食用の木だ。食べることも眠ることも必要としないくせに、なぜか律儀に食事や睡眠をとるカインのための木。いつもは妹のジゼルが食事を用意するが、そのジゼルとは暫く会えていない。
カインやアベルと違って、妹は「本物の」熾天使(セラフ)なので、忙しいのだろう。妹の強さは知っているので、アベルはあまり心配はしない。それよりも心配なのは……

 視界の隅に黒い羽根が映る。ついに、始まったのだ。

 大急ぎで塔へ戻ろうとするアベルをあざ笑うかのように、白い回廊は来た時と違う形にグネグネと姿を変えていた。どんなに急いで走っても、回廊の距離が延びるだけで、たどり着く時間は変わらない。それでもアベルは必死に走った。カゴからリンゴがいくつか零れたが、気にせず走り続けた。目の前に見えた塔の扉は、危惧した通りにやはり開いていた。鍵は付いていなくとも、あの扉は内側からしか開かないのに。

 駆け寄ろうとしたアベルは、塔の外へ漏れる強烈な血の匂いに足を止めた。どうしてだろう、怖くて仕方がない。アベルはもっと先の未来を知っているが、今起こっているほんの少し先の未来は知らないのだ。これからどうなるのかが分からない。わからないことが怖い。
父のような先見の力が欲しかった。兄のような破壊の力が欲しかった。妹のような断罪の力が欲しかった。今の自分には何もない。

「……カイン?」

 塔の中は真っ暗だ。白くて明るい回廊を歩いてきたせいか、目が慣れない。血の匂いだけが濃く鼻を刺激する。
見えたのは赤い、片足、いや、腕……どれもバラバラに、飛び散って……とても、いきているとはおもえない。

 血だまりにカゴを取り落とした。転がるリンゴが血で染まった金髪にぶつかる。コツン。
薄目を開けたうつろな金の瞳が、アベルを見た気がした。気が、した。
アベルはガクガク震えて両手で口を塞ぎ、必死に悲鳴を押さえた。カインが「息を吹き返す」瞬間を見てしまったから。

 それは神秘的な光景などではなかった。吐き気を催す、ひどくおぞましい光景だ。息絶えた肉体が息を吹き返すと同時に、生きていたころの形に戻ろうとする。戻らないものもある。血とか、肉片とか。ボロボロに裂けた服を見れば、彼が天使の武器で身体と言わず頭と言わず、めった刺しにされて殺されたことが分かるだろう。
これは回復魔法や禁断魔法のたぐいではない。神王や天使たちが恐れたイソラの力だ。真名を奪い、力を奪ってもカインの中から消えないイソラの力が、彼を生かして世界を殺そうとする。

 元の形に戻った彼は、ただズタボロの服をまとって、血濡れで床に寝そべっていただけのように見える。寝起きのように視線はうつろで、そしてあまりにも普通だった。アベルは肩の力を抜いた。カインは死なない、大丈夫だ。

「……起き上がれる?」

 声をかけると、今気づいたというようにアベルに視線が向く。彼はゆっくりと起き上がった。本当に、寝起きのような動きだ。手を掴んで起き上がらせると、彼は血濡れの自分の状態には気づいていないのか、ぼんやりとしてアベルを見た。

「どうしたの?」
「……何でもない。服、ダメになっちゃったから、着替えようか」

 どこもかしこも血まみれで、ベタベタする。部屋の惨状を見ているはずなのに、彼はそれには気が付いていないのか、それとも彼の中では無かったことになっているのか言及は無かった。アベルも余計なことは聞かないことにする。
タオルを敷いた上で新しい服に着替えさせても、何も疑問に思わないようだ。言う通り素直に着替えるものだから、逆にアベルは心配になった。

「扉、開けちゃダメって言ったのに……」

 責めるつもりは無かったが、声に出た。
カインは反応しない。半目になって、今にも寝そうだ。血が足りていないのかもしれない。片目だけ再生されなかった。足元もおぼつかない。

「行こう。ここから出るんだよ」

 手を引いて歩き出すと、素直についてくる。
まぶしいくらいに白い回廊は、リンゴのアーチまで一直線だ。
最初フラフラして危なかった足取りは、いつの間にかしっかりしたものになり、宝玉が見える頃にはアベルのすぐ隣で同じように走っていた。金色の目がキラキラして外の世界を向いている。
もうすぐ、彼の望んだからっぽの外の世界へ行けるのだ。

 リンゴのアーチを抜けると、カインは引き寄せられるように宝玉へ向かっていく。その役目はアベルではなくて、カインでなければならない。ここから先はずっと。

 あの宝玉が何か、俺は知らない。知る必要もない。

「あれ、なんだろう……」

 そう言ってカインは宝玉に近付いていく。俺では近づくことさえ出来なかった、とてつもない魔力を秘めた赤い宝玉。カインが台座から宝玉を取り上げた瞬間、橋が崩れた。

「わぁっ!?」
「カイン!?」

 間一髪、今までの緩慢な動きからは想像できない素早さで、カインは橋から飛びのいた。
崩れ落ちた橋は真っ逆さまに下界へと落ちていく。何となく、カインが難を逃れたのは想定外な気がした。

 宝玉を手にしたカインは、じっと手の中の宝玉を見つめ……

「はい」
「……えっ?」

 宝玉をアベルへ差し出した。
アベルは台座に収まる宝玉には近づくことすらできなかったが、今はそうでもない。カインはアベルのすぐ傍まで近寄ってきて、アベルに宝玉を受け取るように差し出すのだ。

「イソラと名前、返してくれるんだって」

 カインは分かっていないようだが、その言葉が意味するものを良く知っているアベルは宝玉を受け取ることをためらった。
いつまでも手を出さないアベルに焦れたカインが、宝玉を押し付けてくる。

 パチッ、と静電気のような音を立てて、アベルは宝玉から真名を戻された。しかし、それだけだった。おそらくもう、宝玉には触る事すらできない。それはもう彼だけのモノだし、自分はここで退場するのだ。
宝玉は受け取らず、思わず体ごと後ずさる。緑の瞳が揺れる。

「どうしたの『ニデル』」

 彼は自分の態度に困惑しているようだった。宝玉を手にすれば、この美しく完結した完璧な世界から出ることが出来ると思っているからだ。確かにそれは正しいが、あくまで宝玉を手にした者に限る。彼は知らない、その中に「ニデル」は居ないのだ。

 先ほど橋が落ちたことで、双子が宝玉を手にしたことが天使たちに知れている。リンゴのアーチの向こうから、大挙して押し寄せる天使たちの姿が見える。彼らの使命はただ一つ、宝玉を天界から出さないことだ。そして彼らの使命は今ここで阻まれる。

「えっ?」

 宝玉を両手で抱えた彼の肩を掴んで押す。崩れた橋のあった場所へ突飛ばせば、あっけないほど簡単に体勢を崩した彼の身体は、床のない場所へと倒れ込んだ。
何が起こったのか、おそらく本人が一番わかっていないはずだ。長く続く浮遊感と共に、潰れていない片方の目が、遠ざかる天界の姿を眺め続けるだろう。

「どうしてっ!」

 飛び方を知らない天使は、宝玉を抱えたまま、ただひたすら下界へ向けて落ちるだけだ。残された一つだけの金の瞳が、涙をこぼしながらジワジワと赤く染まっていく。

 槍を携え、弓を構えた天使たちは、残された何の力も持たない双子の片割れを始末するだろう。

「……さようなら、『リデル』」

 後悔ではない。残されたのは、未来を変えた達成感。

 アベルの物語は、ここで完結する。

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